祝ってやる

内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
そういえば自分とは直接無関係な他人を攻撃する人、ほんと最近増えたなと思った。
そして、twitterで見ず知らずの人に絡まれる割合も増えたなあと。
特に一部の2ch住民の、twitterユーザーの個人情報晒し上げのやつはかなり醜い。

読んでいて思ったのが、切り込み方が『呪い』というのがユニークだなと。
いろいろと気になったところを引用。

 辛辣な批判を加えた人々は、それによってさらに質の高い作品を作家が生み出すだろうと期待してそうしたわけではありません。作家に二度と立ち上がれないほどの傷を負わせるためにそうしていたのです。
 このとき村上は、反批判を自制し、外国に移住して呪いから逃れ、その才能を守りました。これは正しい選択だったと思います。「邪悪なもの」を本能的に避ける能力は、彼の作家的天才の一部だと僕は思います。

呪いというものを、僕は「記号化の過剰」というふうに理解しています。

 呪いは強烈な破壊力を持っています。だから、呪いを発した人間は強い全能感を覚えます。呪いに人々が惹きつけられるのは、破壊することの方が、創造することよりもはるかに簡単だからです。

 呪いを発する人間の末路は、だから麻薬中毒者と同じように哀れです。攻撃的な言葉は相手の生きる気力を奪うだけでなく、それ以上に、自分の生命力も傷つけるからです。他人への呪いというのは、自分にも必ずはね返る。

 確かに呪いは驚くべき効果を上げ、強烈な全能感をもたらすけれど、同時に代償として、それを発する者の生命力も奪い去ってゆく。そのことを中世までの人たちは常識としてわかっていました。呪いを発するにも抑止するにも専門的な知見と技術が必要だ、ということをみんな理解していた。

 正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。

『呪い』って、結局何も生まないよね、と、いろんなこと見てて思う。
『言霊』ってのは実はあったりするもので、『自分が言った言葉』が自分に跳ね返ってくるというのは多々あったりします、実際。
まあ、そんなもんだから、ネット上では極力そういう「悪い言葉」は発しないようにしなきゃなと気をつけてます。

※画像はネットでの拾いもの


投稿者 さやま ゆき